姨捨正宗│純米酒の長野銘醸をご案内します。

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蔵元(会社概要)

明治初期の邸宅図

当家屋敷図(東京精行社刊行 日本博覧図所載)

当社 概要

信州更科の里・姨捨は万葉の時代より月の名所で知られた、芭蕉も恋する月の都です。

芭蕉が更科紀行を記述する中、湧き水と棚田に囲まれた当地で弊社が創業しました。

以来三百有余年、創業時のままの蔵で、昔ながらの手造り純米を醸し続けています。

会社名
長野銘醸株式会社
事業内容
清酒醸造・製造、卸・小売販売業
代表者
代表取締役 和田 直道(15代目)
創業
元禄二年(1689年)
住所
〒387-0023 長野県千曲市大字八幡275 
TEL
026−272−2138
FAX
026−272−2380
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休業日
土曜・日曜・祝日(第1土曜は営業)
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蔵元の歴史

寛文年間(1661〜1672年)

 鎌倉時代の信濃の国 和田郷(長野市)の領主、御家人 善光寺奉行人 和田石見入道佛阿[文永二年(1265年)没]の後裔、信濃国更科郡八幡中原(郡村)の和田山城主和田弾正正俊[天文十三年(1544年)没]の五世之孫 和田三郎右衛門正成の次男、與八郎(後に平兵衛正公と改)が分家、同村の肝煎を勤める傍ら酒造業を創業しました。

なお、5代與惣右衛門正常以降は分家が名主(肝煎)を勤め、当家は大名主となっています。

 

元禄2年(1689年)の記録に酒造石高92石とあり、石高についての一番古いこの記録の年をもって創業の年としています。

 当時は「松泉」、「高砂」を銘柄として使用していました。現在の「姨捨正宗」は江戸後期からの銘柄です。

  和田家は、その祖は平安時代において、信濃の国東条の庄(高井郡・水内郡)の地頭、下って鎌倉時代において和田郷(長野市和田)の御家人。当和田家の直系の祖和田石見入道佛阿は善光寺奉行人をつとめ後に当更科郡八幡中原の地に移りました。

  以来、和田家はこの地において室町時代、戦国時代の乱世を地方豪族として逞しく生き抜き、江戸時代の商品経済の展開にもよく適応して、その所領知の米を用いて、武家(郷士)としての醸造業を成功させてきました。そのような歴史のなかで、地域社会の文化、経済、産業の発展に重要な役割を担ってきました。

 

地域社会にのこる事跡
慶安4年(1651年)
 和田三郎右衛門正成の長男 和田弥左衛門正廣の発願により龍天宗登大禅師を招き当地開眼寺の前身観音堂を建立しました(開基)。(臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の記録に「当地の豪族 和田弥左衛門正廣の発願により・・開山とす」とあります)

・ 文政9年(1826年) 5代 和田與惣右衛門正常 現在の開眼寺を建立(中興)。

・ 和田與惣右衛門正常 大雲寺正門、鐘楼、庫裏、教典蔵を寄進。

  このように、仏閣の寄進が目立ちますが、和田家の祖が仏門の人であったことが深く影響しているものと考えられます。

  その他、善光寺、長楽寺、武水別神社などに数々の寄進を行っています。

 

宝暦2年(1751年)
  3代 和田輿惣右衛門正伴は五穀豊穣を願い、村人の娯楽楽しみを豊かにするため北陸より獅子舞を導入。以来、東、北信地方にお神楽文化が広がり、現在におよんでいます。

 

弘化4年(1847年)
 善光寺地震に際し、6代 和田輿惣右衛門正益が被災地に対し多分の金銀米穀を提供し、7代 和田輿惣右衛門正誠(與八郎)は婚礼席で被災し、名刀で活路を開き多数の人命を助けた賞賛の記録があります。[むしくら日記(松代藩家老・河原綱徳稿本)]

 

嘉永2年(1849年)
 善光寺道名所図会(豊田利忠 編; 春江忠近 校正補画)に当家の七曲の松が紹介されました。この松は現在も観賞する事が出来ます。

 

明治5年(1872年)
 庄屋(名主)制度の廃止に伴い9代 和田郡平が第三十区戸長に任命されました。明治7年の大区小区制実施の際には、郡平は第十四大区副区長に任命されています。通常大区に区長は置かれませんでしたので、郡平は実質的に第十四大区長に任命されたわけです。のちに郡平は明治11年に発足した長野県議会の初代議員にも選出されています。

 

明治6年(1873年)
 郡平が有栖川熾仁親王から苗木を下賜されて、長野県最古の林檎園である和田林檎園を開園し、郡平の影響の下で林檎栽培が県下に広がりました。(長野県果樹発達史 長野県経済事業農業協同組合連合会発行より)

 

明治14年(1881年)2月
 稲荷山銀行を設立し和田郡平が初代頭取となりました(明治14年〜24年)。

 稲荷山銀行は後の明治26年12月に第六十三国立銀行を救済のため吸収合併し(存続会社は第六十三国立銀行を使う)、明治30年7月に株式会社六十三銀行と改名、その後昭和6年、第十九銀行と合併により株式会社82銀行を設立、今日に及んでいます。(八十二銀行五十年の歩み 八十二銀行発行より)

 

明治28年(1895年)
 和田郡平は八幡尋常小学校の開設に際し、土地、建築資金の寄付等多大の貢献を行いました。郡平の功績を称えた記念碑(川島浪速 書)が八幡小学校に建立されています。

 

明治37年(1904年)頃
 松井須磨子(本名:小林正子)の叔母で養母である「やす」が和田郡平の後妻として嫁ぎました。この関係から、松井須磨子は一時(明治38年頃)当家に滞在し、養蚕を手伝ってもらった事もありました。郡平に連れられて郡平の孫娘「須磨子」と共に旅に出かけた時、「須磨子」の名をいたく気に入り、後日芸名にしたそうです。

 なお「須磨子」の名は、郡平が一ノ関から須磨、明石方面に旅したすぐあとに生まれた為、記念に命名した名前です。

 

明治39年(1906年)頃
 明治39年5月14日、日露戦争の戦勝記念に当地を訪れた東郷平八郎 元帥、伊東祐亨 元帥、上村彦之丞 大将を郡平が迎えています。三将軍はオバステ正宗で戦争の疲れを癒し、その酒質を賞賛して仕込水である「桜清水」を「天下第一泉」と命銘されました。

 この時、三将軍は同郷(薩摩)の故友、大寺安純 少将(日清戦争で戦死、男爵を授爵)の長女「讃」が当家に嫁している事を知り、面会するや大いに喜びました。この逸話は信濃毎日新聞 明治三十九年五月十四、十五日号の記事となっています。

 

昭和23年(1873年)
 第11代 芳郎は、増醸酒が普及する中で純米酒を造り続け日本酒の伝統文化を守り続けました。(参考: さまよえる日本酒 ビーエービージャパン刊 高瀬斉著、幻の酒造りに燃えた男 フルネット刊 高瀬斉著、小説幻の酒 ビーエービージャパン刊 高瀬斉著)

 

昭和28年(1878年)
 田中哲朗先生を中心として結成された吟醸酒グループ研醸会に参加。長野県が醸造試験場の指導に従い吟醸酒の醸造を取りやめる中で吟醸酒を醸し続けました。その功績は現在まで高く評価され、この純米、吟醸蔵としての伝統が現在の当社の基礎となっています。

 

昭和33年
 和田家敷地内に長野銘醸株式会社設立。個人から法人経営に移行しました。

 

昭和62年
 普通酒を廃止し、オバステ正宗はすべて特定名称酒となりました。

 

平成19年
 醸造アルコール無添加を達成、オバステ正宗はすべて安心安全の純米酒となりました。

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